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第四話 山が騒ぐ

作者: 森村征爾
last update 公開日: 2026-07-21 14:23:21

巣穴へ戻る前。

私は水の流れへ入り、身体についた匂いを落とした。

赤い体液、肉の脂。

腐りかけた甘い肉の匂い。

そして、奴の匂い。

流れに身体をこすりつける。

冷たい水が毛の奥へ入り、赤黒いものを剥がしていく。

岸へ上がると、匂いの強い草へ身体を押しつけた。

葉を折り、茎を潰し、汁を毛へ擦り込む。

土にも転がった。

消したかった。

あの喰い場へ、自分の匂いを置いてきた。

足跡を刻み、毛まで落としてきた。

踏み込んではならない領域に踏み込んでしまった。

私が肉塊になる理由はそれだけで十分だった。

私は巣穴へ潜り込み、耳を澄ませた。いつ匂いを辿りこの穴に襲いかかるのか…。恐怖はやがて諦めにも変わった。

だが奴は来なかった。

日が昇り日が沈む。

二回目の日が昇り日が沈んだ。

…まだ来ない。

代わりに、山には違う音が響いていた。

チリン。

チリン。

乾いた、硬い音。

野山にはない音だった。

鼻先へ流れてきたのは、二本足の匂いだ。

二本足特有の身体から染み出ている匂い。だがそれとは別の…

あの嫌な匂いもする…。

長い筒を持ちいくつもの二本足が歩いていた。

頭や胸に、丸い果実の皮のような色のものを付けている。

派手で、浮いていて、森の色ではなかった。

叫びながら歩いていた。

「おーい!」

「助けに来たぞー!」

「返事してくれー!」

意味は分からない。

だが落ち着きのない声だった。

二本足たちのそばには、四本足の吠えるものもいた。

細く長い鼻先。

速い脚。

忙しく揺れる尾。

そいつらは地面を嗅ぎ、藪へ顔を突っ込み、突然こちらへ向いて吠えた。

「ワン! ワン!」

身体が固まる。

鼻が利く。

耳も利く。

厄介なものだった。

ならばと風上には回らず観ていた。

そして二本足の手には、あの棒。

鼻を刺す匂いを吐き、山を裂く音を出す棒。

今、外へ出るな。

身体の奥で、親の記憶が唸った。

危ないものが満ちたときは、

籠れ、距離を取れ、動くな。

私は巣穴の暗さへ沈み、時が過ぎるのを待った。

遠くで吠え声が走った。

「ワンワン!」

「ワンワン!」

次の瞬間。

山が裂けた。

あの叫びは水辺の奴の咆哮だった。

腹の底を揺らす、怒りと痛みの混ざった叫び。

水辺の主。

あの大きな影。

吠えるものたちの声。

二本足の怒鳴り声。

枝の折れる音。

土を蹴る音。

山中がざわめいた。

いつもの山ではなかった。

一つ目の轟音で木々からは空を飛ぶ動物たちが一斉に羽ばたき、

また空気が震える。

「まだや!次撃て」

二本足の叫びが轟いた瞬間、また山中に鳴り響いたが木々は揺れるのをやめた。地面の虫まで黙った。

静寂の世界がしばらく続いていた。

私は巣穴の奥で身体を縮めた。

鼻先に届く風が変わる。

あの刺激の匂い、二本足らの匂い

そして、薄れていく奴の匂い。

やがて。

すべてが止まった世界は動き始めた。

吠えるもの。

怒鳴るもの。

枝の折れる音。

しばらくして。

二本足たちの荒い息だけが残った。

何かを引きずる音。

濡れた肉が地を擦る音。

それも遠ざかる。

山にいつもが戻った。

だが前と同じ静けさではなかった。

水辺へ向かう風から、あの匂いはもう来ない。

大きく、冷たく、尖った匂い。

山から、ひとつの匂いが消えた。

自然の摂理、弱肉強食。

木々だけが、何事もなかったように揺れていた。

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